アクセス&問い合わせ
 

       「みことばの約束」

 

 

信仰のレース

ヘブル12:1

■はじめに:

 新約聖書において、信仰生活はしばしば、ゴールを目指して走る「長距離レース」に例えられています。その強調点は、信仰のレースを途中で断念しないで、天国という最終ゴールまで走り続けるようにということです。この箇所で、ヘブル人への手紙の著者が強調しているのはそのことです。著者は今日の私たちにも必要な2つの具体的な勧めをしています。

 

Ⅰ.身軽になって走り続けよ・・という勧め

 

(2)それは現在の、あるいは、将来の生活に対する過度の心配や不安かも知れません。
(3)それは、この世に対する過度の執着、即ち、お金、物、地位、名誉への執着かも知れません。それらは、「この地上で天国を」と考える生き方であるゆえに、本当の天国へ向けての走りを鈍らせてしまいます。
次に「まつわりつく罪」とは何でしょうか?それは、私たちの前進を妨げるために、私たちに巧妙にからみつく罪のことです。著者はここでは具体的な罪のリストは挙げていませんが、意図していたことは、おそらく“不信仰の罪”でしょう。イスラエルが約束の地になかなか入れなかったのは、彼らの不信仰によるものでした。同じように、私たちがキリストにある素晴らしい霊的祝福にあずかれないでいるのは、この“不信仰”という罪の故です。

厳しい試練に直面する時、私たちはしばしば、神ご自身の愛と真実を疑い、また、神の時を待ち切れずに、不信仰に陥ることがあります。それは、すべての行程で、私たちの足に絡みつき、私たちの前進を妨げてしまいます。 その結果、前進がはばまれ、信仰のレースから逸脱する危機に直面します。それはまさに、サタンが待ち構えている道です。私たちはたとえ、物事が私たちの願うように進まないことがあったとしても、神の愛と真実と最善を信じて、常にからみつき、前進を妨げる不信仰の罪を悔い改め、それといさぎよく決別して行かなければなりません。

「一切の重荷とまつわりつく罪とを捨て去る」と、心は軽くなり、喜びと感謝をもって、神に仕え、信仰のレースを走り続ける事ができます。今、もし自分の信仰のレースの妨げとなるものが何であるかに気付いておられるなら、それらを、主に示していただき、新たな思いでレースにのぞむべきです。

Ⅱ.忍耐を持って走り続けよ・・という勧め

「自分の前に置かれている(=定められている)競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ここでの「忍耐」とは、「不屈の努力」、あるいは「厳しい状況のもとに留まり続けること」を意味しています。即ち、すぐあきらめず、屈せず、根気強く,という意味。

 マラソンの時の一番の誘惑は何でしょう。苦しくなって途中で“止めたい、歩きたい”という誘惑ではないでしょうか?しかし、ゴールのテープを切るためには、「忍耐」して走り続けるしかありません。でも、この「忍耐」ということばは、いつの時代にも、どの年齢層にも、あまり歓迎されないことばです。―「もう少し我慢しなさい」と言われて、気分爽快になる、と言う人はいません。もうすでに疲れきっているのに、なお「忍耐しなさい」と言われると、余計に疲れてしまいます。しかし、ヘブル10:36で、神は言っています。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」

信仰と忍耐とは、手と手を取り合っていくべきものなのです。

しかし、これらの2つの勧め、即ち、「身軽になって」、「忍耐をもって」とは、どちらも口で言うほど、生易しいものではありません。私たちは捨てたはずの重荷を、いつしか再び背負い込み、悔い改めたはずの不信仰の罪に何度も陥りやすい、愚かな者です。また、そういう自分を見て、「もう、自分はだめだ!」とあきらめ、落胆しやすい者です。

著者はそういう当時のクリスチャンたちや、今日の私たちを励ますために、自分だけを見ないで、困難な中を「信仰」と「忍耐」をもって走り抜けた、信仰の勇者たちに目を留めるようにと、このように語っています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、・・忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

「多くの証人」とは、11章で紹介した、神の約束を信じ、地上での厳しい信仰のレースを忍耐をもって走り抜き、天に凱旋した人々のことです。「雲のように取り巻いている」とは、競技場に観客が一杯に溢れているように、信仰の生涯を全うした証人たちが、天の座を埋め尽くしている情景を描いています。私たち日本人の間には、死者が私たちを見守り、励まし、守ってくれるという考え方がありますが、ここでは、彼らが今、天から私たちのレースを見て、声援を送っている、ということは暗示されていません。

彼らの死は、彼らを信仰の競技場から取り去りましたが、彼等の立てた生ける証しは、今も、聖書のページを通して、私たちに語り、私たちを励ましていてくれます。彼らの証しは、まさに「信仰」と「忍耐」の証しでした。とは言え、彼らの誰ひとりとして、信仰において完璧だったと言う人はいません。私たちと同じように、皆、弱さを持ち、試みに会い、失敗した人々でした。しかし、信仰のレースを完走したのです。

彼らと共に歩まれた主が、彼らを励まし、彼らを支え、時には、背負って、彼らを完走させてくださったのです。それは今日の私たちの歩みにおいても同じです。私たちの内におられるキリストは、私たちが信仰のレースを最後まで完走し、無事、ゴールに辿り着くことができるように、日々私たちと共にあり、私たちを励まし、守り、導いていてくださるからです。例え、途中で様々な困難や嵐に出会い、一歩も先へ進むことができなくなったとしても、決して私たちを見捨てたり、見放すことはありません。

 ■終わりに:

 私たちの人生は、何があろうとも、主が先立って導かれる人生です。私たちの信仰のレースを妨げる不必要な重荷や、からみつく不信仰の罪をいさぎよく捨て、もっと身軽になって、また、途中でコースアウトすることなく、共におられる主に信頼し、拠り頼みつつ、忍耐を持って走り続けましょう。その先には、確かな天国というゴールがあり、永遠に朽ちない栄光の冠が用意されているからです。走ることの出来ない方は、ゆっくり歩んで行っていいのです。完走することです。

    

 

聖霊の約束

ヨハネ14:16-18

■はじめに:

神が約束しておられる聖霊とは何か、その働きは何かなど、これから数回にわたり学んで行きます。そのことによって、私たちの信仰生活、教会生活がさらに豊かにされ、いよいよ神を崇め賛美する生活、人生の戦いに勝利していく秘訣を学んでいきましょう。今日はその第1回目「聖霊の約束」について3つのことを見て行きます。

Ⅰ.聖霊の約束がなされた時:

それは、主イエスの弟子たちとの最後の晩餐の席でのことでした。やがてご自分が十字架にかけられ、その使命を全うして、父なる神のみもとに帰る時が来たのを知って、そのことを弟子たちに告げました。

肉体を取ってこの世に来られたイエスの存在とその働きは、当時の社会に大きなインパクトと影響力を与えました。彼は病人をあわれみ、癒し、無学の人々を教え、また、親切で、思慮深く、全ての人々に愛と誠実な態度を持っておられました。だから、

彼らは、この主イエスこそイスラエルを贖い(ルカ24:21)、地上に王国を打ち立て、そこで高い地位に着く特権にあずかるであろうことを夢見ていたからです。主のみこころを悟らず、ただ自分たちの事しか考えられず嘆き悲しむ弟子たちに、主の心はどんなに痛んだことでしょうか。

そういう彼らに、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父は、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主が、いつまでもあなたがたと、共におられるためにです。」また16:7で「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益(=良い事)なのです。もし、わたしが去って行かなければ、助け主があなたがたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」と言われました。ご自分が去って行く代わりに、助け主を送り、その助け主が、彼らと共にいると約束されたのです。この「助け主」とは(4回繰り返し)、聖霊のことです。

聖霊とは

三位一体の第3位格で、父と子と同じように、永遠に存在される方のことです。

聖霊の呼び名:(16,17節)

「もう一人の助け主」=もう一人の同じような助け主。

「助け主」とは、相談相手、弁護者、親愛なる友として、「側に呼ばれた者」=「慰め主」=Comforterという意味です。

 「真理の御霊」とは、御霊は真理であり、それゆえ真理を教え、真理に導くものであると言う意味です。そのことによって彼らの信仰を強め、確立させ、やがてその真理の上に神の教会を立て、聖書を書き記させようとしておられたのです。

 

Ⅱ.約束の成就の時:それは主イエスが地上を去って天に帰られた時です。16:7節をもう1度ご覧ください。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」ここで2つの事が明らかです。


1.主イエスが去って行くことは御霊の降臨にとって不可欠なことであったということです。地上を去るということは、彼の遣わされた働きとその使命が完了したということを意味していました。彼は「もしわたしが去って行かなければ、わたしがなすようにと与えられた働きを終えることは出来ない」と言っているのです。彼に与えられた働き、使命とは、人類を罪から完全に贖うために、自ら身代わりとなって十字架にかかって死ぬということでした。ですから、もしイエスが贖いのわざを終え、そのまま地上で墓に閉じ込められたまま、天に帰らなかったら、人類の救いのためには何もなされず、全ての人は罪と死に定められ、やがて永遠の滅びを刈り取らざるを得なかったのです。

主イエスが地上での働きを完了し、天に帰ることは、神がその救いのみわざを地上でさらに拡大するための次なる新たなプランの始まりでもありました。それは信じる者たちのうちに御霊を送ることでした。しかし、御霊は完全な委託された任務なしには来ることはありえませんでした。人類の贖いを終えて勝利の内に天に帰られるまでは、十分な任務を手にすることは出来ませんでした。その約束が、ペンテコステの日に成就し、教会が誕生し、世界はこの御霊の働きによって一変させられていくのです。


2.主イエスが去って行くことは、弟子たち自身との関係においても不可欠であったということです。もしイエスが地上に留まり続けたなら、彼を信じる者たちが信仰を実践するための場所や機会はほとんどなかったと言っていいでしょう。目に見えるものを信じるのは本当の信仰ではないからです。また、イエスが弟子たちと肉において留まることと、そこに御霊が来られ、彼らがその両方を同時に十分に楽しむということはありえませんでした。それはただ混乱を生じさせるだけだったでしょう。

イエスは天に昇らなければなりませんでした。それは父から御霊の賜物を受け取るためだけではなく、弟子たちの心と信仰に御霊のための場所を作るためでもありました。イエスは天に上り、栄光のからだに変えられて、初めて御霊を通して私たちの内に内住されるのです。

 

Ⅲ:約束の祝福:16:7 a

「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」御霊の降臨はイエスが肉体を持って存在するよりも、弟子たちや全ての信仰者たちにとってもっと益となる、祝福となる、と言っているのです(私たちはしばしば逆のことを考える)。それは一体どういうことなのか、肉体をもったイエスの働きと御霊の働きとを見比べながら、そのことを見てみましょう。

イエスの個人的な働きは特定の地域に限られていました。しかし御霊の働きは普遍的です。イエスは同時に1つの場所以上には存在することはできませんでした。しかし、御霊は同時に、どこにでも存在することが出来るのです。

イエスの個人的な働きは外部的なものでした。しかし御霊の働きは心の中における働きです。イエスは彼の肉体的感覚を通して人々に言葉と声で訴えました。しかし御霊の働きは、直接人間の心や意志、良心に訴える内面の働きです。

イエスの個人的な働きは、本質的には一時的なものでした。しかし御霊の働きは永久的なものです。イエスは一時期だけこの地上に来られ、人間として、そこで迫害を受け、死を味わわれました。しかし御霊はとこしえに彼の民の中に留まるために来られました。そして個人的には邪悪な世からどんな肉体的な傷害も受けることはありません。イエスはバプテスマのヨハネのように、この世における一時的な先駆者,使者でした。彼の使命が成就されるや否や彼は姿を消しました。しかし御霊は常駐の使節であり、彼はその責任を決して放棄することはありません。

イエスは、個人的な肉の存在によってより、御霊によって、もっと弟子たちと親密な関わりをもつことが出来るのです。ですから彼らにより近く来るために、去って行き、より高い神の形をとって来られたのです。弱さにおいてではなく、全能の力において。恥においてではなく、栄光において。死の陰においてではなく、神であり栄光の姿に変えられた命を持ってです。また、肉においてではなく、御霊において、外側においてではなく、彼らの内側においてです。ですからイエスが去って行くことは、弟子たちに御霊の働きと同様、さらにイエスの働きをもたらす結果ともなったのです。彼らはやがて、約束の御霊を受け、その力に満たされ、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」とのイエスの宣教命令に従い、全世界に飛び出していくのです。

 

■終わりに:

今日キリストを信じる私たちにも、キリストに代わる「助け主」としての御霊、真理の御霊が与えられています。そして、その御霊は私たちの内に、また、私たちを通して神の真理を、また全能の力を現わそうとしておられます。しかし私たちは何としばしば、その御霊の存在を、またその全能の力を無視し、自分の力や考えで行動し、失敗を繰り返す者でしょうか。知識として知っていたとしても、それを実生活で活用しなければ何の役にも立ちません。それは宝の持ち腐れです。いや、それは神の恵みを無駄にすることになります。今朝もう1度、私たちに与えられている御霊が何を意味しているのかを深く思い見、その大いなる恵みに感謝し、新たな思いで御霊に自らを明け渡し、その御業を、御力を味わう者とさせていただきましょう。


 



                                                                      感謝にあふれて
 
                                                                            ルカ17:11-19      2019:1.1
 

2019年がスタートしました。新しい年の初めに、心からの感謝を捧げるために教会に導かれ、まず、主を礼拝することからスタートできることに心から感謝を致します。

 一年の初めに、一人の異邦人(サマリヤ人)の人生が、主イエスに出会うことによってどのように変えられたのかを見て行きたいと思います。また、この出来事を通して次のことを自問自答してみましょう。
私は主イエスに出会った者として、日々、感謝と賛美を神に捧げている者でしょうか。

また、私は癒されたことを知って、すぐに感謝を表わすために主イエスの所に戻って来たひとりでしょうか。

 この聖書箇所から、2種類の人について考えてみましょう。

第一は、主イエスを悲しませたユダヤ人についてです。

第二は、主イエスを喜ばせたサマリヤ人についてです

■ 最初に少し当時の時代背景を見ておきましょう。

12節の「ツアラアト」と訳された病は重い皮膚病を指します。この病に侵されると、すべての社会生活から隔離され、家族からも引き離され、特別な場所で生活しなければなりませんでした。またそのような人々は既に死んだものとみなされ、そのため宗教的にも汚れている人々とみなされていました。当時、その病に対してどんな癒しも知られていませんでした。彼らは全く絶望的な状態にあったのです。旧約聖書のレビ記にはその病に関する規定が細かく記されていますが、今朝はそのことは割愛します。

 この出来事はある村で起きた出来事でした。そこで主イエスを出迎えたのは病に侵された10人でした。彼らは遠く離れた所に立って声を張り上げて叫んだとあります。この当時の決まりでは、このような人々は村人から約40-50メートル離れていなければならないというものでした。ですから、村人たちの迷惑にならないように、彼らはかなり離れた所に立ち、主イエスが通られるのを見逃さないようにずっと待っていたのでしょう。おそらく、彼らはイエスがどんな病も直される力のある方だとのうわさを聞いていたので、このチャンスしか自分たちの絶望的な状態から回復されることはない、このチャンスにかけてみようと思ったのではないでしょうか?

 13節を見ると、彼らは声を張り上げて「イエスさま、先生、私たちをあわれんでください。」と叫んだとあります。その10人の声にはどれほどの切実な願いと真剣さが込められていたことでしょう。その声がイエスの耳に届きますようにとの願いを持って彼らは力の限り叫んだのです。主イエスはあわれみ深い全能なる神様ですから、どんな声も聴かれる方です。彼らにこう言われました。14節:「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中でいやされた(=清められた)と書かれています。この時代のユダヤ人は、肉体の病を宗教的な汚れと結び付けて考えていました。ですから、ここに登場する10人の病も、癒されたかどうかは祭司の判定によるものでした。主イエスはその病人に自分たちの病が治ったことの承認をしてもらうようにと言われたのです。不思議なことに、まだ、治るかな治らないかはわからなかったにも関わらず、彼らは主イエスのことばに応答して出かけたのです。そして、その行く途中で10人すべてが癒されたのです。ここまでは彼らの行為はすべて同じでした。

しかし、ここからが大きく違う状況が生まれてきました。癒された10人のうち、9人は主イエスを悲しませ、ひとりだけが主に喜ばれる結果となったのです。

Ⅰ.最初に、主イエスを悲しませた9人のユダヤ人について、見てみましょう

 彼らは主イエスを見つけ声の限り叫びました。そしてイエスのことばを信じて出かけました。そして、行く途中で癒されたことが分かると、一目散にどこに行ったのでしょうか?彼らは祭司の所に行って、自分のからだを見せ、8日の後に正式に治っている(清くなっている)という承認を得ると社会復帰ができ、家族の元に帰ることが出来るのですから、どれほどの感激だったかは推察されます。しかし、彼らは癒されたことに満足し、癒してくださった方のことは全く眼中にはありませんでした。

 17節「10人きよめられたのではなかったか9人はどこにいるのか?」本当に9人はどこにいるのでしょうか?残念なことに彼らは主イエスのことばを聞き、奇跡を体験しましたが、本当の意味で主イエスにお会いすることも、癒されたことを感謝して礼拝をささげることもなかったのです。彼らにとって大事なことは人間による承認であり保証でした。「あなたはもう病人ではない、汚れていない、良くなった」というスタンプを得ることにまさるものはないと考えたのでしょう。彼らは切実に癒しを求めて主に叫びました。しかし、癒されたことへの感謝を忘れ、主から離れ遠ざかって行ったのです。

  

Ⅱ.次に、主イエスを喜ばせたサマリヤ人について、見てみましょう。
  15節、16節に「そのうちの一人は、自分の癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足元にひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」とあります。このサマリヤ人はどうしたでしょうか。
まず癒されたことを知りました。そして、大声で神を賛美しました。もと来た道を引き返しイエスの足元にひれ伏し感謝の礼拝をしました。

自分を癒してくださった主イエスが、生ける真の神であることが分かったこのサマリヤ人が第一に考えたのは、感謝を捧げるために主イエスのもとに引き返すことでした。9人が祭司の元に喜び走り去るのを見ても、彼の心は違った所に向けられていたのです。自分を清くしてくださった方がどなたであり、自分はその方に対して何をおささげすればいいかということが彼の心を占めていたのです。彼は異邦人であり、サマリヤ人でありましたが、主イエスに真に出会ったのです。トマスが「わが主、わが神」と主イエスを礼拝したように、このサマリヤ人も「足元にひれ伏して感謝にあふれて礼拝をささげたのです」。18節を見ると「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人ほかには、だれもいないのか」と主イエスは嘆かれました。私たちも困難に直面すると必死に祈り求める者ですが、主のあわれみによって、その祈りが応えられた時に、答えられた事実だけに満足し、主のもとに来て、主に感謝し、主を崇めるのでなければ、主を悲しませることになることを覚えなければなりません。続いて19節で、イエスはサマリヤ人にこう言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(「直した」とは「救った」という意味です)。

ここで、特に2つのことに注目しましょう。

 1つは「いやし」と「救い」とは違うということです。10人は、主イエスの言葉を信じて祭司の所に急ぐ途中で癒されました。それは単なる肉体の癒しでした。しかし、「救われた」のはただ一人、このサマリヤ人だけでした。「救われた」とは、罪も癒された(=赦された)ということを意味しています。それは、彼だけが、主イエスを神と認め、主のもとに引き換えし、主にお会いし、その足元にひれ伏して主を礼拝したからです。人が「救われる」とは、自分の罪を悔い改め、イエスを救い主と信じることであると聖書は述べていますが、ここではそのような彼の具体的な行動は何も記されていません。しかし、彼が「イエスの足元にひれ伏して」主を礼拝したという行為の中に、主がそのことをお認めになられたということでしょう。それとは逆に、9人は、癒されたことを知っても、癒し主なるイエスのもとに帰らず、その主を崇めることもなく、主から離れていったのです。

 私たちは、信仰を持っていない家族や友人の病の癒しのためにも祈ります。そして主はあわれみを持ってその祈りに答えてくださいます。しかし、その癒しはイコール救いではありません。私たちは肉体の癒しと同時に、魂の癒し、救いのためにも祈らなければなりません。  2つ目は、「立ち上がって、行きなさい」と命じられたことです。信仰によって救われた彼への、新たな使命と言っていいでしょう。「立ち上がって」とあります。それは、主を礼拝することによって与えられた新たな力によってと言うことでしょう。「行きなさい。」とは、まず、祭司の所に、それから、彼の家族に、周りの人々にその奇跡と喜びを、そして何よりも、その癒し主であり、救い主である主イエスを証するためにということでしょう。それは今日、救われている私たちひとり一人に対する使命でもあります。その使命を全うするために最優先されるべきことは、何よりもまず、主のみ前に出て、主を礼拝することであることをしっかり心に留めるべきです。

 ■終わりに:

この新しい一年、私たちの信仰者としての歩みはどちらでしょうか?9人のように願いや祈りが聞かれることのみを優先して、聞いてくださる神を忘れる歩みに陥らないようにしましょう。そうではなく、このサマリヤ人のように、救いの恵みを覚え、何よりも神の御前に出て、いよいよ神をあがめ、感謝の礼拝をささげ、遣わされたところにおいて、救いの恵みを大胆に証しして行く者とさせていただきましょう。

 

 

 

 

                                      祝福される器 

Ⅱ列王4:1-7

■イントロ:

  私たちは誰でも、日々、様々な課題を抱えながら歩んでいる者ですが、神はそういう私たちに絶えず目を注ぎ、私たちを慰め励まし、また祝福しようと立ち上がられる方であるということを、心に留めたいものです。イザヤ30:18にこのようにあるからです:「主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」

きょうの箇所に、危機的な状況に直面していた一人のやもめが出てきます。しかし信じられないような神からの祝福を得て、その問題は解決されていきます。今朝はこのやもめの態度、行動から、たとえ困難な状況に置かれていても、いかに神からの祝福を受ける器とされるかについて、共に見て行きましょう。彼女はここで、その秘訣について3つのことを実演しています。

 

Ⅰ.何よりもまず、問題を神に前に持ってくること(1節):

 ある時、一人のやもめが預言者エリシャの所に来て、夫が亡くなり、経済的に危機的な状況にあることを訴えました。その問題を、他の誰かの前ではなく、神の人の前、即ち、神の前に持って来て置いたのです。

 私たちが信じ従っている神は、単なる概念上の神ではありません。今も信じている私たちの内に生きて働いておられる全知、全能なる神です。何度も言いますが、その方にとっては、不可能なことは1つもありません。私たちはこの方の前に問題を持って来て委ねるのです。彼女は、何よりもまず、そのことをしました。それが神からの溢れる祝福を味わう第1歩となったのです。

  Ⅱ.素直に神のことばに従うこと(2-5節):

 エリシャは彼女に尋ねました。2節:「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」 それによって、返済のめどが立つかどうかを知るためでした。彼女の答えは「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ1つしかありません。」という全く絶望的なものでした。 そこでエリシャは、次のように命じました。3節:「外に出て行って、隣の人みなから、器を借り知来なさい。空の器を。それも、1つ2つではいけません(できるだけ多く)。」

彼女は信仰のチャレンジを受け、神に大いに期待すべきであることを命じられたのです。

借りてくる器には、1つの条件がありました。それは「空の器」であるということです。大きい、小さいには関係なく、古い、新しいには関係なく、少々傷がついていようがなかろうが、それらに関係なく、中が空っぽでなければなりませんでした。なぜなら神は、その「空っぽの器」を、やがて溢れるばかりに満たし、彼らの必要を満たそうとしておられたからです。

彼女はエリシャの言葉を信じ、神の力と備えを信じて、すぐさま、息子たちと行動を開始します。しかしそれは決して容易なことではありませんでした。周りの人々から怪訝な顔をされ、冷笑されたかもしれません。しかし、息子たちはそんなことは全く意に介さず、ただ神のことばを信じ、黙々と器を借りに隣近所を走り回り、彼女はそれらに油を注ぎ続けたのです。

彼女は、器が部屋中に一杯になったのを見ても、神の祝福が十分なのを見ても、尚子どもたちに言いました。6節:「もっと器を持って来なさい。」神のことばに従い続ける時、溢れるばかりの祝福が注がれるのみでなく、私たちの信仰も増し加えられていくものであることが分かります。

 

Ⅲ.自らを空っぽの器として神に捧げること:

 自分たちの力ではどうすることも出来ず、少量の油の入った1つの壺以外に何もないのに、神のことばに従った母親と息子たちも、「空っぽの器」であったと言えるでしょう。それは、自らの無力さを知り、へりくだって、完全に神に明け渡し、依存する者の姿です。

そういう人は、自分に頼るものは何ひとつないので、大胆に神に求め、期待することが出来るのです。神の祝福はそういう人に豊かに注がれるのです。

自分の能力、知識、地位、経験を誇り、それらで心が詰まっている人。この世的な関心事や、自己中心的な思いで心が詰まっている人。神に信頼できず、絶えず恐れと不安、心配で心が詰まっている人。憎しみや怒り、あるいは、不平、不満、疑いで心が詰まっている人。まだ捨てきれずに密かに楽しんでいる罪をもっている人。そういう人たちは自分のうちに神の祝福、恵を受け入れる余地はほとんどありません。

神が祝福し、用いようと探し求めておられる器、それはいつでも、神の御前に心砕かれ、へりくだり、罪を悔い改め、神に従う用意の出来ている「空っぽの器」です。空っぽであればあるほど、多く満たされるのです。

神は今日でも、私たちの負債を払う助けをする用意があります。もし私たちが、心を空にし、神に全く明け渡し、信頼してより頼むなら、神は今でも必ず私たちの必要を満たし、祝福してくださるお方なのです。「空の器を持ってきなさい。私はそれを満たしてあげよう。」と今日でも同じ御声を掛けて下さる神の御声を聞き続けたいものです。


                         
                                                   



                         争いのない井戸を求めて   
                                                            創世記26章

 創世記26章には「信仰の父」と呼ばれ、神とともに歩んだアブラハムの一人息子、イサクの人生が描かれています。イサクは「私はあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。」という神の約束のことばを聞いていながらも、神が共におられないような行動を取り、神の真実を無視して人生の汚点を残しました。

 けれどもイサクはその失敗を通して学び、神の約束に立ち返り、次に来る試練に立ち向かって行くのです。彼は神と共に歩むことによって、その後の人生において素晴らしい神からの祝福を体験しました。

それは「どんな状況でも神に委ねて歩むことの祝福」でした。

イサクは重大な問題に直面していました。それは、神がイサクを祝福されたので彼は裕福になり、その結果、ペリシテ人から激しい「ねたみ」を買ったことでした。その結果、自分たちの生命線である井戸をふさがれ、ついには、その地から追放される目に会ったのです。

しかし、イサクは、移動する先々で起こる、争いに対して憤慨したり、争ったりはしませんでした。彼は争いになるといつでも身を引きました。それは、敗北の故の後退ではなく、共におられる全能者なる神を信頼しての勝利への後退でした。

イサクはまた、「怒り」の感情は、物事を正しく解決するよりも、相手の怒りを増幅させるだけであるということを、これまでの経験を通して学んでいました。ですから、このような厳しい状況の中で、生命線である井戸の問題で常に試みられても、冷静に行動することができたのです。
 イサクの態度は、私たちの良い見本です。彼はこれまでの辛い失敗の経験を通して学んでいました。神の赦しと愛を体験した彼は、その中で語られた神の声を聴き続け、生ける神の真実を体験し続けたのです。

イサクは何度も何度も井戸堀りをしました。堀り終わったと思うとその辺に住む民と争いになり、妨害を受けました。しかし、イサクは決して諦めませんでした。神の備えの井戸、争いのない井戸が見つかるまで探し続けるのを止めませんでした。ついに、争いのない井戸を見つけた時、イサクは「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」と感謝を捧げました。
 神は信じるすべての人々に対して同じような備えをして下さるお方です。イサクには井戸が必要でした。生きるための水が必要でした。せっかく掘った井戸が何度もふさがれるような辛い経験の中を通らされても、彼は神の真実を求め続ける信仰者でした。その神の真実は、最善の井戸を最善の場所に用意していて下さることによって証明されたのです。

 私たちは今、どんな必要を覚えているでしょうか?心の平安でしょうか?魂の癒しでしょうか?罪の赦しでしょうか?他人との和解でしょうか?将来への確信でしょうか?それらが何であれ、人間的には不可能に思えることであっても、神は必ず備えの井戸を用意してくださると期待できるのです。

 どんな状況の中にあっても、私たちもイサクのように「私はあなたと共にいてあなたを祝福しよう。」と言われる神の声を聴き、この力強い励ましの言葉により頼んで歩み続けていきたいものです。




ただ主のみ

詩篇73:25,26

 

この聖書個所は、作者が、人生の様々な矛盾に悩み苦しみ、神の取り扱いに疑問を感じ、信仰が試みられる中で、ついに到達した「神こそが私の人生のすべての全てである」ということを、声高らかに告白し、神をほめたたえ礼拝している個所です。

彼はここで2つのことを力強く証ししています。

 

Ⅰ.天にも地にも、望むべき方は神のみである(25節):

 1.25節:「天では、あなたのほかに、だれをもつことができましょうか。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」「望む」とは、「慕う」、「期待する」、「依り頼む」ということをも意味しています。

 この告白は、神が悪者を栄えさせ、正しい者を罰するように見える矛盾(Ⅰ-14節)を、自分の視点からだけ見て悩み苦しんでいた作者が、それを神の臨在の前で、神の視点から見た時に、目が開かれ、気づかされ、叫んだ告白です。「私は神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。」神は必ず悪を裁かれる義なる方である事を悟ったのです

 彼は、「天では、あなたのほかに,“何を”、ではなく、“だれを”もつことができましょう」と言い、また、地上でも「あなたのほかに私は“だれをも”望みません」と告白しています。この世のどんな物や他の何ものよりも、神ご自身を慕い求め、神ご自身に望みを置き、依り頼む、と告白しているのです。事実、どんなに多くの物や富を持っていても、それらがどんなに輝かしく、美しいものであっても、それらは私たちの魂を満たすことは決して出来ません。私たちを造られた神のみが、私たちの心の叫びやその必要を知り、私たちを助け、その必要を満たし下さるのです。

また、作者は、自らの低い霊的状態から抜け出て、今や、最も大きな祝福は、実に、神を慕い求め、神と親しく交わり、神をより深く知り、その臨在の内にあることだと悟るに至ったのです。

この詩篇の作者は言いました。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。ただ、あなたののみです!」私たちが天国において最も待ち望むことは何でしょうか。永遠の休息、問題や悩みからの解放、また、天的平安や喜び、愛する人々との再会などではないでしょうか。心配無用です。それらは天において全て用意されています。しかし、それらの何にも勝って、私たちが天において待ち望むべきは、神の御顔、キリストの御顔です。栄光に満ちた神のみ前に立つ。それは何という光栄に満ちた特権ではないでしょうか。私たちは言うべきです。「天では、キリストのほかに何も望みません。贖い主であるキリストに会い、その御顔を仰ぎ見ること、それだけで十分です。」と。

また、作者は言いました。「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」私たちもまた、彼と声を合わせて言うべきです。「キリストが全ての全てです。私が望むのはキリストのみです!」と。しかしそれは、家族や仕事はどうでもいい、ということではありません。それも神によって与えられたものですから、大事なもの、愛し、いつくしむべきものです。しかし、それらがキリストより優先されてはならないということです。キリストは私たちの罪のために身代わりとなって死なれ、永遠の滅びから救ってくださった救い主です。そして、今も、信じる私たちと共に歩み、私たちの歩みを日々導き、守り、支え、全ての必要を満たしてくださる生ける主です。このキリストに一切を委ね、このキリストによって生き、キリストのために生きる時、周りの環境や状況がどうであれ、それらによって左右されることなく、どんなことでも力強く、希望を持って乗り越えていくことができるのです。

 

Ⅱ.人生に完全な満足を与えてくれるのは神のみである(26節):

 「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし、神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」

「この身とこの心とは尽き果てましょう。」作者の体も神経も、困難に直面し相当に疲れ切っていたのでしょう。また、やがて、老いてそうなることを想定しているのでしょう。肉体が衰えると、心も衰えて行きます。心が衰えると、行動も、気力も衰えて行きます。しかし、作者は、「それもまたよいことである」と言うのです。「なぜなら、何が起ころうとも、昨日も今日も、とこしえまでも変わることのない神が、尚も、私の心の岩、力となって支えてくださるからである」と。(「岩」=堅固な土台。「私の分の土地」=私の全て・・と言う意味です。)

     即ち、彼はこう言っているのです。

「私は知っています。私が神のうちに確信をもって憩うことのできる立場にいることを。例え、いのちの土台が私の下で揺れ動くように感じられる日がやってきても、神が私を支える岩であってくださると告白できます。神は動かされたり、動揺したりするはずがありません。ですから、私がどこにいようとも、何が起ころうとも、私の体の具合がどうであろうとも、また地上のものが過ぎ去っていく時でも、この岩である神が支えてくださるので、私は決して動かされません。神はとこしえに私の心の岩であり、力であり、私の分の土地、全ての全てだからです。」

 何と力強い証しでしょうか。これこそ、激しく揺れ動くこの時代にあって、私たちクリスチャンが生きて、見せて、語っていかなければならない証しです。あいまいで抽象的な神概念ではなく、このような確固たる神概念を持って、その上に自らの信仰を、また人生をしっかりと確立して行きたいものです。

 

 

 

 神が求めておられること       

 

「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

       

 南王国ユダは、ヒゼキヤ王の下で宗教改革が行われ、人々は神を中心に生活をし始めていました。しかしその改革は、内面的な悔い改めの伴わない、表面的なものでした。人々は神を恐れ従うのではなく、形だけの礼拝を守ることに安住し、足元から国家的な崩壊が始まっているのに気づいていませんでした。

神はユダの状況を憂い、預言者ミカを通して、彼らが真に悔い改めて主に立ち返り、主の求めに従って歩むようにと、3つの大いなるチャレンジを与えています。これは、今日、私たちも聞かなければならない、神からのチャレンジです。

Ⅰ.公義を行え:

 これは神の教えにかなった正しい行動をするように、即ち、言葉と行動において、他人を公平、公正に取り扱うようにという意味です。全く義であり聖なる神が、信じる者たちに公義を求め、義なる神の性質を表していくことを求められるのは当然のことです。しかしユダの民は、信じているとは口先だけで、実生活においては、神の言葉とその義は無視され、公義と正義は踏みにじられていました。神の栄光は傷つけられ、御名は辱められていました。「公義を行え、さもなければ滅びるのだ!」と、神はご自分の御性質にかけて、民が、正しい神への信仰に立ち返るように、このことを命じられました。

今日、私たちも、また、同じように神の言葉がないがしろにされ、公義が踏みにじられ、不正が蔓延している社会に住んでいます。その中で、私たちの信仰が、単なる口先だけのものではなく、本物であることを証しするためにも、この世と妥協せず、不正や悪には断固として立ち向かい、神の教えにかなった正しい行動を貫いていかなければなりません。やがて私たちは、正しく聖い神の前に立つことになるからです。

Ⅱ.誠実を愛せ:

 これは他人の必要に、あわれみの手を差し伸べること、特に、罪を犯した人を赦し、試みに会っている人に深い同情を示すことを意味します。正しいことをするのはすばらしいことです。しかし、そこには苦しみ悩んでいる人に対する愛とあわれみが結び合わされなければなりません。あわれみは、罪深い人、苦しんでいる人に翼を広げることであり、それはまた、真の気高さのしるしです。その最もふさわしい実例は、人となって来られたイエスご自身の姿の中に見られます(ヘブル2:17,18)。

私たちは生まれながら自己中心的であり、他人のことより、自分のことを優先させてしまう者です。従って、私たちが本当に「誠実を愛する者」「あわれみの手を差し伸べる者」とされるためには、罪深い私をあわれみ、救うために十字架にかかって死なれた、キリストの大いなる愛を知り、キリストを信じ、キリストの愛によって生かされていく以外に方法はありません。キリストから与えられた愛とあわれみの手を差し伸べていくなら、人々はクリスチャンのうちに、麗しいキリストの姿を見、神を求めるようになるでしょう。

 Ⅲ.へりくだって神とともに歩め:

 罪深く、永遠の滅びに定められていた者が、罪赦され、神の子とされたのみならず、今度は、その神とともに歩むようにと求められているということは、何と言う恵みであり、特権でしょうか。「歩む」とは、“生きて行動すること”を意味します。神がともに歩んでくださる人生だからこそ、私たちは最早、どんなことがあっても恐れず、それらを乗り越えていくことが出来るのです。しかし、問題は、私たちがそのことをいつも心から願っているかどうかです。ユダの民は高価な捧げ物よって、神の前に自分たちの義務を果たしていると思っていました。しかし、彼らの現実の生活の中には神はいませんでした。

私たちはどうでしょうか?心から神に、私とともに日々歩んでいただきたいと望んでいるでしょうか?神とともに歩むためには、まず、私たちがしなければならないことがあります。キリストが支払われた大いなる犠牲のゆえに、自分の罪を悔い改め、キリストを信じ、神と和解することです。そして、神の前にへりくだらなければなりません。神とともに歩むとは、神を常に私たちの人生の主権者と認め、自分の人生を神に明け渡し、神との交わりの生活をすること、また、神を愛し、神を崇め、ほめたたえることを人生の仕事とすることを意味しています。日々へりくだって神とともに歩むことを選ぶ者には、これまで味わうことがなかった大いなる喜びと、平安が伴うでしょう。

これらの神の求めを、私たちは誰ひとり自分の肉の力で成し遂げることは出来ません。秘訣は、日々神に明け渡し、内住の御霊により頼んで歩み続けることです。新しい年を目前にして、自らの歩みを省み、御霊により頼み、喜んで神と人に仕える人生へと新たな一歩を踏み出す決心をしたいものです。

 

       

                                                                    人間のいのちの尊さ       

 
 テレビや新聞に毎日のように痛ましいニュースが報道されています。それが一番安全と思われる家庭の中で起きたり、何の関係もないと思われる人々が突然犠牲者となってしまったりするという現実に唖然とさせられます。人間のいのちというものは、そんなにも軽々しく扱っても良いものでしょうか。多くの人たちは、自分のいのちは自分のものだから、自分で勝手にできると勘違いをしています。でもそれは大きな間違いです。私たちのいのちは、自分の手で作り出したものでも、また、偶然にひとりでに生じたものでもありません。それは、この天と地の創造者である神によって造られたのだと聖書は述べています。

ですから、ひとり一人のいのちは、尊く大切なのです。

 

 以下に、この神に造られたいのちがなぜ尊いのかについて、三つの観点から見て見ましょう。

Ⅰ 私たちは神のかたちに似せて造られた存在であるから

  創世記1章27節に「神はこのように、人をご自身のかたちに想像された」とあります。「神のかたち」とは、肉体的な外観のことではありません。それは、人間が霊である神と、真の交わりを持つ(コミュニケーションを持つ)ことができるように、「霊的な存在」として造られたという意味です。しかもすべての創造の業の頂点として、人間は造られたのです。

 

Ⅱ 私たちは神の愛の対象として造られた存在であるから

cわたしはあなたを愛している」とあります。「あなたを愛しているとは」あなたがどんな状態であっても無条件で愛しているという意味です。「神の目」にはあなたの存在そのものが高価であり、それはあなたの能力や努力や性格や容姿とは無関係なのです。これはいつも周りから比較され、評価されてきた私たちには、考えられない神の見方ではないでしょうか。神に愛されている事が分かると、自分を他の人と比較しないで「私は私でいいのだ」と受け入れることが出来るようになります。「あなたがこの場所にいることが私にとっては喜びなんだ」と、もし親や教師から言われたとしたらどんなにうれしいことでしょう。私たちは、神から互いに愛されているいのちを尊重し合い、大切にしなければならないのです。

 

Ⅲ 私たちは神に目的を持って造られた存在であるから

イザヤ43章7節では「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」とあります。今日、人生の目的や生きる意味が分からないと言って悩む若者が多くいます。私個人の経験からも、キリストに出会う迄、全く人生の意味を見出すことは出来ませんでした。大学になって友人の誘いで、初めてキリストという方が私の人生に触れてくださった時、すべてが変わりました。それはキリストが私の人生に「生きる確かな目的」を与えてくださったからです。その目的はまずキリストを知るということです。神の栄光のためにこんな私が創造されたのだと分かった時は、本当に感動しました。その後、私は直接神さまの働きをしたいと願い、アメリカで7年間聖書の勉強をしました。外国で学びをすることは厳しいものでしたが、神に仕える喜びで満たされていました。もはや、何のために生きる自分なのかとか、私の人生に意味があるのかという問いは消えていました。神が私をそのために造られたことをはっきりと信じることができたからです。同じように、あなたのためにも神は確かな目的を持っておられるのです。

 

以上三つの観点から、なぜいのちは尊いのかについて見てきました。神が私たちを神のかたちに創造し、愛し、目的を持って造ってくださったのなら、私たちはこの神の前にどのように生きていけばよいでしょうか。まず、自分のいのちを大切にすること、自分を受け入れ嫌わないことです。「自分は愛されるはずがない」「自分はだめだ」「自分には何かが欠けている」「やる気がしない」と自分を否定的に見る若者が残念ながら多いと言われています。しかし、これまで見てきたように、神はあなたをそんなふうには見ていないのです。すぐには身につかないかも知れませんが、自分の見方がすべてであるかのような否定的な思いは捨てて、神があなたをどのように見ておられるかを学んでください。そうすれば、きっとかつての私がそうであったように、あなたの人生に思いがけないチャレンジが待っていることでしょう。

 

そのために是非あなたに、キリストとの出会いを体験していただきたいのです。キリストは神でしたが、私たちを罪の生活から救い出すために、この地上に「救い主」として誕生されました。なぜ救い主として来られたのでしょうか。それは、神のかたちに、愛の対象として、目的をもって造られた人類が、神に従わず、神を無視し、不従順な道を選んだからです。このままでは滅びる他ない人類に、神は救いの道を用意してくださったのです。それがイエス・キリストです。ヨハネ3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。これがクリスマスの中心なのです。この「世」ということばの中には、あなたも私も含まれています。神は誰も滅びることを望んでおられません。キリストを信じて永遠のいのちをいただくようにと願っておられます。 

まだキリストを自分の罪からの救い主と信じていない方は、是非、今日という日にこのように祈ってください。「父なる神さま。私のこれまでの罪やわがままをお赦しください。今、キリストを罪からの救い主と信じます。どうか、私の罪を赦し、これからの人生を導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」                                                                          
                                        新鎌ヶ谷聖書教会牧師  玉井邦美



 

主イエスの復活と約束

 マルコ16:1-8

 

     復活された主イエスから与えられた3つのプレゼント、信仰、希望、愛について改めて考えてみましょう。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ.その1・信仰―
 復活によって、主イエスはそれが救いの根拠であることを示された(私たちの救いの経験は、復活の信仰
  と直接的な関係があることを示された。)

 主イエスは死から復活しなければなりませんでした。なぜなら、それは神が永遠から愛を持って計画してお
 られた人類を罪から救うという「贖いのドラマ」のクライマックスだったからです。もし彼が十字架にかけられ、
 死んで墓に葬られたままであったなら、罪とその死の力に屈したことになり、私たちの救いは絶望的でした。

        しかしイエスは、輝くイースターの朝、墓の前で見張りを続けていたローマ兵たち、また入口をふさいでいた
         4トンもの大きな墓石をものともせず、墓から復活されたのです。それは、全ての時代の人類の罪のための、
        尊い1つの犠牲が、神の前に受け入れられたということのしるしでした。

       この主イエスを信じるなら、誰でも罪赦され、神の前に罪のない者として受け入れられ、救われるのです。信
    じることによってただで与えられる素晴らしい恵みです。ですからイエスを信じる者にはすべて、罪から解放さ
    れた自由 があります。喜びがあります。感謝があります。罪と死の力を打ち破って墓から蘇られたイエスを信
    じる信仰、それは私たちが救われるための唯一の手段であり、神からの一方的な賜物です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅱ.その2・希望―
 復活によって、イエスは、私たちにも蘇りの確かな希望があることを示された。

       パウロはⅠコリント15:20でこのように述べています。「しかし、今や、キリストは眠った者の初穂として死者
         の中からよみがえられました。」キリストの復活は、私たち信じる者の「初穂」(=第1号)であり、やがて私たち
         もそのキリストの復活にあずかって蘇るのだと言っています。また、主イエスは、ヨハネ11:25で、彼を信じる
         者たちにこのように約束しています。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生
        きるのです。」即ち、キリストを信じている者は、死んでも、キリストと同じように死からよみがえり、キリストのお
        られる天国において、永遠に神と共に住む事が出来るという約束です。 死は誰にでも予告なしにやって来ま
         す。それは不安と恐怖をあおるものです。しかし、この確かな約束と希望のゆえに、私たちは死を恐れる必要
         はありません。死は「人生の終着駅」ではなく、「永遠の神の御国への旅立ち」を意味しているからです。復活
         の主にあるこの確かな希望を、日毎の主との交わりを通してもっと身近なものとして体験して行きたいものです。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅲ.その3・愛―
 復活によって、イエスは、信じる者に、神の本当の愛を示された。

    ローマ5:8にこうあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった
    ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」キリストの死は私たちに対する神の
    愛の現れであったと言っています。しかし弟子たちがそのことを真に体験していくのは、復活したイエスとの出
    会いによってでした。イエスを捨てて逃げ出した弟子たち。しかしイエスは彼らを見捨てられませんでした。彼ら
    を再びご自身との愛の交わりの中に招き入れ、彼らを励まし、整え、やがて彼らに、「全世界に出て行って福音
    を宣べ伝えよ」との大宣教命令を託し、天に帰って行かれました。それが彼らとガリラヤで会う目的でした。神の
    愛は一方的に与える愛です。主イエスは、そのことを身を持って弟子たちに示されたのです。そして弟子たちは
    その主の愛によって変えられ、その愛のメッセージを携え、全世界に出て行き、世界を変えて行ったのです。こ
    のように、キリストを通して示された神の愛のみが人を変え、世界を変えるのです。

    今日、キリストはご自身の愛を示すために、すべての信頼する人と共に生きておられます。「見よ。わたしは、
    世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます。」(マタイ28:20)。これはキリストご自身からの約束の
    保証です。私たちには、地上最強のキャプテンがいつも共にいて下さり、私たちを守り導き支えていてくださ
    るのです。何という驚くべき恵み、特権でしょうか。

   ■終わりに:

    私たちはもう1度、イエスは私たちの救いのために十字架にかかり、死からよみがえられ、私たちの内に住ん
    でおられる生ける真の主であることを、そして私たちに信仰と希望と愛をもたらされたことを再確認しましょう。
     そして、その主に、全てを明け渡し、その主を証しつつ、従って行く新たな決心をしましょう。

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・